現代取引社会における甘やかされた寵児とは

とりあえずは約款の話である。契約当事者間の一方が、契約内容となる条項群の内容を良くはしらないままに契約に締結する。古典的な契約理論ではあってはならないことであり、内容を理解しないままに契約したのであれば、それらの条項群は契約内容にはなっておらず、法的な拘束力は発生しない。そのように考えるのが本来的なはずである。
しかし、現代の取引社会では、そのような古典的な契約理論は通用しない。言い過ぎだとすれば、通用していないことが多い。必ずしも合意内容を認識していなくとも、有効な契約内容となることがある。いわゆる約款取引の存在である。古典的な契約理論の破綻を示すものとして、契約は死んだなどと言われ、議論を呼んでいる。
1896(明治29)年に制定された明治民法には、当然のことながら約款に関する規律は存在しない。明治維新から僅か30年であり、約款による取引などが明確に意識される時代ではなかったと思われる。
それでも、約款の拘束力に関するリーディングケースとされる判例が1915年(大正4年)には登場する。火災保険について、保険加入者は反証のない限り約款の内容による意思で契約をしたものと推定すべきであると判示したのである(大審院大正4・12・24判決民録21輯2182頁)。以後、105年の間、実体法に根拠のない約款契約が有効とされてきた。当事者にそのような意思が認められるとか、そのような商慣習があるとか、法律家は苦しい説明を続けてきたのである。
突き詰めてしまえば、約款契約は有効とせざるを得ないということだろう。法律理論で説明ができないことでも、社会に実在する事象があり、そこに一定の規範の存在を認めなければならない場合があるという典型例だったかもしれない。法律家には手に負えない放蕩息子のような存在である。
故石井照久教授は、その著書において、「普通契約条項は自由主義国家の甘やかされた寵児」というランゲの言葉を引用して、約款取引問題を取り扱っている(『普通契約条項』勁草書房、1957)。ここでは普通契約条項は約款の別名と考えていただければよい。
今回、この甘やかされた寵児である約款取引のあり方を民法に定めることとなった。改正法548条の2ないし4の規定である。規定のあり方については大きな議論があり、改正法に対する評価の中には内容が不十分とする厳しい意見もある。私自身、法制審議会の担当部会において厳しい意見を言わせていただいたこともある。
ただ、考えてみれば、もともとが甘やかされた寵児である。いきなりスパルタ教育など馴染むわけがない。ここは辛抱強く育てる意識が必要であろう。
いずれにしても、約款契約に関しては、今回、民法の規定が適用されることになった。放蕩の仕納めである。
ところが、現代取引社会には、この他にも甘やかしている寵児がいる。譲渡担保権である。
物権は法律に定めるものの他には創設することができないという物権法定主義(民法175条)がありながら、法律にその根拠、内容が定められていない。にもかかわらず譲渡担保権なる物権が、実社会には紛れもなく存在している。約款契約が民法に定められた今、譲渡担保権についても、何からの形で法制化を試みる必要がある。
現在、法律研究者及び実務家による任意の研究会ではあるが、「動産・債権を中心とした担保法制に関する研究会」において、この問題に関する検討がなされている。今後、法制審議会内に、この問題を扱う部会が設置されるものと思われる。
譲渡担保権という明確な形で立法がなされるか否かは、今後の議論次第であるが、何からの形で、譲渡担保権を念頭においた立法がなされることは重要である。
甘やかされた寵児に問題があるのではなく、甘やかしている法律の方にこそ、問題があると肝銘すべきである。

生まれいでし童小さき道典に、浮世の風の平らかを念う