約120年ぶりの民法改正、そこにはどのような理念があったのか。2009年に法制審議会に対し法務大臣からなされた諮問第88号では、民法の現代化と分かりやすい民法(判例法理の明文化)という2点の諮問事項が示されました。しかし、これは改正の方針、方向性であり、21世紀の日本社会を支える民法をどのようなものとするかという基本理念とは別の事柄です。今回は改正法の理念について考えてみたいと思います。
法制審議会民法(債権関係)部会(以下、「部会」といいます。)の審議は2009年11月に始まりました。ただし、それ以前から法務省関係者及び民法研究者の有志によって、改正の準備作業が行われていました。この準備段階から強調されたのは、「契約規範が合意にもとづいて発生する」というルールです。契約当事者は合意に拘束されるという意味で契約の拘束力と言われたり、パクタ原則と呼ばれたりしています。部会審議でも、このような契約当事者の自律(オートノミー)を重視する議論が数多くなされました。しかし、一方で、民法においては、そのような当事者の自律に委ねるだけでは不十分であり、やはり裁判所による後見的な保護が必要であるというパターナリズムに基づく意見も数多くなされました。自由主義社会において、このようなパターナリズムに基づく立法がどこまで認められるのか、学問的な論争があるようですが、今回の民法改正作業においては、結果的に、パターナリズムに基づく改正も相当程度なされています。たとえば、債務不履行責任を定める改正法415条1項です。契約当事者の損害賠償責任を免れる免責事由に関して、この条文は、激しい議論の末に、「契約及び取引上の社会通念に照らして債務者の責めに帰することができない事由によるものであるとき」と定められたました。この「取引上の社会通念」をめぐって大きな議論となったのです。オートノミー重視の立場からは、免責事由は本来、当事者間の契約内容によってのみ定めるのであって、取引上の社会通念は不要という見解になります。この意見は主に研究者の方々から主張されました。これに対し、裁判官や弁護士の委員・幹事、そして、経済界の委員などは、むしろ裁判所による後見的役割を重視し、概ねパターナリズム重視の姿勢となりました。改正法を使うことになるユーザーサイドからの意見などと称して、共闘が図られたのです。その結果、上記のような規律となったのです。
このような改正が行われたことに対し、研究者の方からは批判的な意見が寄せられています。たとえば、部会の幹事をされた大村敦志・道垣内弘人両教授の編著にかかる『解説民法(債権法)改正のポイント』(2017年、有斐閣)などでは、理念なき改正に終わったという指摘や、本来、オートノミー的な民法、つまりは規律が明確となる民法を歓迎するはずの経済界が、パターナリズム的な民法に固執する裁判所と協調的態度を取り、裁判所への信頼を示したことは意外というような指摘がなされています。
パターナリズムとオートノミー、改正民法の理念に関する議論を意識したいところです。私自身も、この点は、5年有余に及ぶ審議会の審議において大変、悩んだところです。私は民法の現代化という観点を考えた場合、必要以上にパターナリズムを強調することは慎まなければならないと考えています。ただ、全てをオートノミーの名のもとに規律を明確なものとすることにも慎重でなければならないとも考えた次第です。取引社会で好まれるとされる明確な規律は、一方でこの社会の構成員であり応分のポジションが与えられるべき様々な人々、私たち市井の人々の住処を奪うことになってしまうと危惧しているからです。パターナリスティックな規定は、これらの人々の権利を守るための何らかの役割を果たすのではないか。ロビン・フットの物語に例えるならば、国王の圧政に対抗するシャーウッドの森の役割を果たすのではないか。そのようなことを考えながら審議に臨んだ次第です。ひとことでいえば、民法における隠れ家(cachette)の確保、オートノミー一辺倒に委ねることなく、お仕着せの自律を必ずしも好まない愛すべき市井の人のための隠れ家を大切にする、今回の平成民法は、21世紀の日本社会のあり方を見据え、このような理念を大切にしたのではないか。私個人は、今回の改正の理念を問われれば、自由主義社会におけるオートノミーを重視しながらも、cachetteの用意された人間味のある民法にしようとしたと答えようと思っています。「取引上の社会通念」というcachetteに立て篭った人々が、やがて来るべき新しい社会の担い手となる、そのような夢想を勝手に抱いています。
ハイ・ホー、ハイ・ホー、森の中から歌声が聞こえます。おっとこれは白雪姫でした。